今こことは?

2022年04月26日

みどりんです。


「今ここ」と言っても、人や本などによってニュアンスが違ったり、また読んだ人の解釈によっても色々とイメージがあったりしますが、簡単に解説すると、「思考を絡めずに、この瞬間に没頭する」ということかな。


「思考」が幻想を創り出す?


私たちは普段一日のほとんどの時間を「思考」の中で過ごしています。


人によると思いますが、頭の中で文字が流れていたり、映像が流れてそれに対して自分がしゃべっていたり・・・常に何かを考えていると思います。


確かにこの世界で生きる上でこの「思考」が役に立つという場合もあるのですが、いま現に、この記事を読んでいるときは、特に集中しているときは、周りの状況がぼんやりしますよね?


人間の意識は何かに集中すると、それ以外のことが認識しにくくなります。


また、これからあなたの一日の中で、頭に浮かんでくる「思考」を追いかけて意識してみると分かりますが、「思考」というものは常に、「過去」か「未来」のことを考えているということに気づきます。


例え、今この瞬間に目の前で起こったことについて考えているとしても、それは一瞬前の記憶について考えています。


また、「未来」のことを想像したり、予測したりするのは、今ここに「存在しないこと」について考えています。


つまり、「思考」は「いま」に存在することができないのです。


理解しづらいかもしれませんが、これから自分の思考を観察し続けていると分かりますが、思考や考えは、常に「過去」と「未来」を飛び回って、「今」に居ることができません。


そして、先ほども言ったような、「いま目の前で起こったこと」について考えている状態でも、「過去の経験(記憶)」と比較してそれを見ています。


例えば、初対面の人が目の前に居るとします。


すると、あなたの中ではきっと、「この人は今まで見た中でもトップクラスに美人だ」

「この人はあの人よりも背が高い」

「この人は彼氏よりも稼ぎそうだ」

「この人は誰々に似ている」・・・


というように、今まで生きてきた中で蓄積したデータと比較対照して、「データ化した情報」としてその人をとらえ始めます。


また、「この人は人を見下すタイプの人だ」

「この人は気さくで付き合いやすそうだ」

「この人は気難しそうだから仲良くなれそうにない」


というように、ラベリングしてカテゴライズして、その人自身ではなくて、その人の印象や見た目などで分類し、「この人はこういう役割の人」という感じで勝手に決めつけ、そのイメージを持ったまま付き合い始めます。


純粋にその目の前の人を見ている、存在を感じているのではなくて、「過去の経験」からスキャニングしたデータを「その人」として記憶するのです。


すると、次からその人と会っても、「ああこの人はこういう人だったな」という感じで、「そういう目」でしか見れなくなります。


もちろん、そこから付き合いが長くなって、その最初のイメージを覆すほどの出来事が重なってくると、そのイメージも書き換えられますが、それでも、それも「データを上書き」しただけであり、その人自身のありのままを知っているわけではありません。


このこと自体は別に人間として当たり前の機能だし、悪いことだと言っているわけではないのですが、一つの前提として、「人間は、目の前の人や出来事をありのままに見ている」


のではなくて、「自分の経験や信念と比較対照して算出されたデータを見ている」のだということです。


そしてここから、「思考が幻想を創り出す」ということにつながってくるのですが、その「データ」、つまりあなたの中の「思い込み」が常に付きまとって、「この人はこういうことを言いそう」「この人はこういう行動をしそう」というイメージをいだき続けていると、


あなたの記憶の中では、その人は「そういう人」と固定化されていくので、過去の記憶が美化されたりするように、あなたのその人に対する記憶も、勝手に編集されて、「あの人はあの時こういうことを言った」


「あの人はあの時私にこんなことをした」という風に覚えているのですが、それを例えば、その人自身に言っても、「え?私そんな事言った?」


「そんなことするわけがない」ということが起こるのです。


あなたも経験ありませんか?友人や親と話していて、「あの時あなた、『~~~~』って言ってたよね?」と言われても、「は?そんなこと私が言う?」というようなこと。


「記憶」というものがかなりいい加減だということが分かりますよね?


そして、今目の前で起こっていることでさえも、すぐに一瞬前の「記憶」になっていきます。


だから、事件や事故が起こっても、人によって、「あれはあの方向から来たはず」

「あの人はこんな帽子をかぶっていた」

「いやいや、帽子はかぶってなかった」

「そんな人はいなかった」・・・


というように証言がバラバラになりますし、これは過去に実際あった実験だそうですが、複数の人に同じ場面を目撃してもらって、警察官から「その時赤い帽子の男が居ませんでしたか?」


と言われると、複数の人が、「赤い帽子の男が居たような気がします」と、存在しなかった男について証言しはじめたそうです。


警察による取り調べがいかに怖いかということ同時に、人間は植え付けられたイメージによって、簡単に「幻想」を創り出してしまうということが分かりますよね~。


つまり、あなたの「あの人」に対する記憶が正確であるとは限らないし、あなたの個人のイメージによってそれは編集されているかもしれないのです。


さらに言えば、その「その人」を比較対照するときの、今までの「記憶・データ・イメージ」でさえも、すでにあなたの「信念」などによってゆがめられたものかもしれないのです。


これも実際の調査データで、「人間の記憶は、1年で50%以上変化(編集)している」という結果が出ているようです。


これが、2年、3年、5年と経過していけば、記憶の何%が事実と同じでしょうか?


このように、私たちは「ありのままの現実」を見ているのではなくて、「思考」「信念」「イメージ」「思い込み」というものに編集、脚色されたものを「現実」だと信じて生きているのだと言えますよね~。


私たちは一日のほとんどをこの自分の「思い込み」によってゆがめられた「思考」ばかりを見続けて、生活しているのかもですよね~。


ほとんど「現実」「真実」を見ることができずに、「幻想」と言ってもいい「思考」の中で忙しく飛び回っているようです。


そのように目の前で起こっていることを正確にとらえることができず、その「思い込み」で歪んでしまった情報を基に対策を考えて、計画し行動しても、なかなか改善しなかったり、解決しないのは当然ですよね?


「悟りを開いた」と言われる人たち50人にインタビューをした記事を読んだりすると、「悟りを開いて」この世界の仕組みに気づくと、


そのような「思い込み」や「イメージ」を投影しなくなるので、より純粋に「現実」をとらえることができるようになった。

「自分がするべきことが分かるようになった」

「問題の解決能力が高くなった」というのです。


つまり、それは今まで「思考」「信念」「イメージ」「思い込み」「編集された記憶」、などの「もや」に包まれていた「現実」というものが、はっきりとそのままの姿で認識できるようになったので、「自分が出来ること」が明確になるということです。


そういう「思考」を絡めることなく、「ありのままの姿」を見ながら生きる。

ということが、「いまここ」を生きるということです。


「問題」を創り出すのは常に「私」、しかし、実は大きな目で見ると、その「問題」はすべて本来「ただそのようになっている、起こっている」というだけで、それ自体が問題なのではなく、それをとらえる人によって、「これは私にとって問題だ」と認識して初めて「問題」が生まれているのです。



だから、同じ出来事でもある人にとっては大問題だけど、ある人にとってはやりがいのある課題になったり、何の問題もないものになったり・・・。


世の中には、何十億という借金を抱えても、コツコツ働いて完済する人もいれば、何十万という借金でも自殺を選ぶ方も居ます。


もちろん、立場や状況が違うということもありますが、すべては捉え方次第、取り組み方次第で全く意味も人生も変わってくるようです。


そして、もう少し言うと、その「問題だ」ととらえ始めると、意識の構造上それが拡大して、どんどんと「大問題」になっていくのです。


私たちの意識はどうしても、「思考」「信念」「思い込み」「イメージ」などを投影してしまうために、「問題」の中にさらに「問題」を創り出していくようなのです。


例えば、Aさんと話していてケンカしてしまった。

人によったらこれは「まあ明日謝ればいいか」くらいですが、人によれば「大変だ、嫌われたかもしれない!どうしよう?」となる。


「Aさんは気難しいからきっとかなり怒っているに違いない」「こちらから謝るのはプライドに関わるし」「どうやって論破してやろうか?」とか


「誰かに頼んで上手いこと言ってもらおうか?」というように、Aさんに対するイメージや、「自分自身」に対する「イメージ・思い込み・プライド」などがからんで、「大問題」になっていくのです。


そして、その本人からはその思ったとおりの大問題が起こっている、というようにしか見えなくなってしまいます。


次の日にAさんを見かけたら「いかにも怒ってそうな表情だった」

「Bさんに私のことを愚痴ってそうだった」

というように、さらに勝手な「イメージ」を投影して考えてしまいがちです。


そのようなことを踏まえて、その上で「いまここ」を生きるとは、できるだけそういった「イメージ」「思い込み」を持たずに、「過去」のイメージなどを持ち込まず、その瞬間その瞬間、固定しない「私」であること。


他人に対しても今この瞬間の「Aさん」として接し、その瞬間その瞬間に集中して生きていくということです。


目の前の「ありのまま」を受け入れて、その中で自分がしたいこと、できることをやっていくということです。

とはいえ・・・ですね~~。

ムムムですね~~。



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