
内部対立
みどりんです。
私達は論理的思考世界に住みながらも、結構矛盾する対立した考え方を知らないうちに受け入れて使っているようです。
「他人には親切に」と思っているその人が「家族を大切に」とも思っています。
「こんなにボランティアだけやっていていいのだろうか、もう少し家族の面倒も見なくてはいけないのではないだろうか?」などと、二つの対立する考え方がムクムクと心の中から上がってきます。
こんな時、誰からも問われているわけではないのに、自分のしている事に対する正当性の主張を自我がつぶやき始めます。
自分の中に後ろめたさがあり、その後ろめたさをうち消す為にです。
これは、自分の中にある対立する二つの考え方が、外面世界に投影されて「どちらが大切なの」という言葉を思考が引っぱっているにすぎません。
「友達を思いやれ」と言いながら「友達には負けるな」と言います。
そしてその二つの考えが矛盾していないという論理を構築しています。
今あなたが、それは矛盾していないという理屈を流ちょうに説明できるとしたら、それは心のどこかで実際は矛盾を感じているからなのかもしれません。
私達は、実際は相矛盾する考え方をたくさん受け入れてしまっているにもかかわらず、それが余りに日常的すぎて、ここが論理的整合性のない矛盾した世界であるという事実に気付かないまま暮らしています。
そしてこの心の内部矛盾が外面世界に投影され、複雑で対立的な人間関係を表出させています。
「今、ここを生きよ」と言われても、「ここ」を空間的場所の事としてしか考えられません。
証明の世界、立証できる事だけが正しいと考える、思考世界に意識が落ち込んでいるからです。
論理で裏打ちされた世界での体験がどういった感覚をもたらすのか、そんな体験を望んだ我々の集合意識は、論理を好む男性偏重社会を創り出しました。
それがこの現代文明社会です。
論理的に証明可能な事だけを正しいと信じる、ちっぽけな世界で人類はどんな体験を果たすのか、我々は見事にその複雑な成果を勝ち取りました。
広大無辺な神秘の世界から、見事に偏狭な証明世界を築き上げました。
今地球は証明可能な世界観から、純粋な体験世界へと脱皮しようとしています。ちょうど芋虫が蝶に変身するように。
今からするこの話を信じる必要はありません。証明など出来ないのですから。
「なにもない無という状態の世界がまずあり、その宇宙にただ一つの意識の存在が私達であった」と仮定します。
すなわち、あなたが実は創造主、神であったということです。
人間として生きていると様々な苦しみを体験します。
大切な人との別れ、病に冒されるなどなど。
その苦しみのひとつに「自分の人生は思い通りになっていない」と思っていることがあります。
仏陀は「母の命さえ救えないなんて、王位という最高の権限・権力にどんな意味があるというのだろうか」と出家してしまいました。
9999の望みが叶ったところで、たった一つが思い通りに行かなければ自我にとってはその全てにおいて不幸と感じるようです。
「お前はこんなに満たされているというのに、なんて欲張りなのんだ」と人を咎めてみても仕方ありません。
人間とはそういうものなのですから。
実は、私達が完全完璧な神であったという事は、自分に何かが欠けているから完璧になる為にわざわざ地球に修行に来るはずがなく、未だかつてしたことのない体験をこの地球でチャレンジするために此処に来たのです。
だったら今体験している全ての体験が「思い通り」になっているという事です。
私は、此処は体験の世界だという視点を通して見るようにしただけで心は安らぎ、静寂を得ました。
ここは全てが検証不可能な世界です。
自分が何者で、どうしてここに居るのかさえ大多数の人たちはわかっていないまま、当たり前に生活をしています。
どちらが正しいか間違いか、結論を出そうとする自分の姿勢を変えてみる気はありませんか?
良いか悪いか、あの人の考え方は正しいか間違いか、日々考え方がコロコロ変わっているのですから決めなくてもいいのではないですか。
今あなたの目の前にある、他人との対立は、あなたの心の中の内部対立にしか過ぎません。
自分の中で相対立する「考え方」「思考」、という二つのミニ自我を観察し発見して下さい。
発見できればその考え方を解除することが出来ますし、その対立する二つの考え方をさらに突き詰めてみて、思考の外へ飛び出してしまう事だってできます。
子供が学校へ行きたくないと言い、親は学校だけは行ってくれと言う。
互いが自分の思いを遂げようとすると、親子の仲が裂けてきます。
親は子供の考えに従うのは簡単だが、子供の将来はどうなるのかと悩みがつきまといます。
意識をこの正邪の世界から出して、体験という窓からこの状況を覗いてみれば面白い風景が見えてきます。
私はいつも、いつも追求してきました。
何が正しいのか。
そして正しさを選び取ろうと生きてきました。
絶対的な正しいものがあると信じ込んでいたからです。
考えて、考えて行動する人は、自分の行動に自信を持っています。
登校拒否のお子さんを持つ親はさらに難しいものです。
自分が上から見てしまう傾向にあるからです。
この「親」という観点からものを見る場合、それは「自分は正しい」という観点からものを見ている事と同じになります。
ですからお前は間違っているという観点から話をします。相手を説得しようとしているのがその何よりの証拠です。
「相手に言ってあげたい」と思う優しい心も「私は間違っていない」という観点から発しているのだという事をです。
あなたが「自分は正しい」の観点に立った時、同時に相手も「自分は正しい」の観点から、発想を始めます。
親が子を心配する純粋な親心が、どうして子供に受け入れられないのでしょうか。
自分の心の中に一体どんな対立関係があるというのでしょうか。
その謎を解いてみませんか。