
幸せの正体
みどりんです。
「幸せ」とは前回書いたように何かを達成したことや、何かを手に入れたこと自体ではなくて、そのことによって、呼び起こされる「気持ち」「感情」の感覚が「幸せ」だということに気づきます。
そして、「気持ち」「感情」というのはこれも良く観察すると、「思考」や「思い描くの」とかではなくて、「体に起こってくる感覚」ということに気づきます。
「幸せ」は体の感覚?
これは「幸せ」に限らずなんですが、私たちが普段感じている「気持ち」や「感情」というものはすべて実は、「体の感覚」であるということに気づきます。
これからの日常の中で、あなたの中で強い感情、「苦しさ」「悲しさ」「怒り」「悔しさ」「イライラ」・・・
などの感情に注目して見ると分かりやすいのですが、それらの「感情」が起こる時、必ず体のどこかに「身体感覚」が現れることに気づきます。
そして、その「身体感覚」が湧き起ってくるのが当たり前なのですが、それに注目しなければ気づかないし、意識できないのです。
特に「怒り」だと分かりやすいと思いますが、胃の辺りが燃えるように熱く感じたり、
背中の辺りがざわざわしたりと、必ず何らかの「身体感覚」を伴っています。
そして、人間は今までの生きてきた経験から、その「身体感覚」が起こってくると、その感覚の種類や場所によって、「私は今怒っているんだ」「私は今悔しいんだ」「私は今不安だ」というように脳が勝手にラベリングします。
そして次から、その「身体感覚」が起こったら、その以前の「感情」を呼び起こします。
つまり、例えば、誰かに対して、「怒り」を感じた時に、胃の辺りがめらめらと燃えるように熱くなった。
すると、「これは怒りなんだ」とラベリングします。
そして、次回同じように胃の辺りが燃えるように感じると、「私は怒っている」と感じるようになります。
それは半ば自動的に、反射的に起こってくるのです。
ちょっと分かりにくいと思いますが、単純に言うと、私たちは普段「感情」というものが存在して、何か嬉しい出来事や悲しい出来事が起こると、それに対応して、自分の気持ちが反応して、「喜び」「悲しみ」という感情が起こってくる・・・
と思っていますが、実は、反射的に「身体感覚」を感じて、その「身体感覚」に対して、過去にラベリングした例えば「怒り」という感情を思い出している・・・
というだけのこともあるのです。
ただ、今、こういう身体感覚が起きているだけ、という風に「感情」と切り離して感じることによって、徐々に不快な感情を感じなくなってきて、克服することができるようになってきます。
「幸せ」もそうなんです。
今まで「幸せ」を感じた瞬間を思い出してみてください。
そうすると、これも人によると思いますが、「胸がポカポカする」とか「体がフワフワする」というような身体感覚を伴っている。
「幸せ」を思い出そうとすると、そういう身体感覚が蘇ってくるんじゃないでしょうか?
その「身体感覚」がその「感情」を盛り上げるための映画や映像でいう「BGM」的な役割を果てしているのです。
余談ですが、「東洋医学」では、こういった
「感情」と「身体(感覚)」の密接な関係を研究し、例えば、「肝臓の病気は『怒り』から来る」というような「対応表」まであり、患者さんの身体的なことと、心理的なことの両面からアプローチするということも実践されています。
「幸せ」の意外な秘密
これは、「悟りを開いた人(覚者)」などがよく口にすることなのですが、「私たちはそもそも『喜び』に満ちている(至福である)」と言われています。
しかし、私たちが普段その「喜び」や「幸せ」を感じられないのは、「思考」が邪魔をしているとも言われます。
例えば、純真な子供のころは、何をするにもいちいち考えたりしないために、さっき怒られたのに、次の瞬間にははしゃぎ始めたり、何もおもちゃが無くても、面白い遊びを見つけたりします。
逆に大人になっていくほどに、何をするにもまず、「それは自分のためになるか?」「それは本当に楽しいのか?」「それは価値があるのか?」「お金がかかるのか?」・・・
などと考え始めてしまうために、純粋に目の前のことを楽しめない。
つまり、私たちは本来みんな幼い子供のように、なんでも楽しめて、ワクワクして喜びを感じられる存在なのに、いつの間にか、「条件を達成」しないと喜べない存在になってしまったようです。
そして、そのことの証拠として、例えば、お風呂などに使って、体が気持ちいいと感じたり、恋愛でワクワクドキドキして幸せと感じたり、何かをいちいち考える余地のない、体の感覚が主体になる時に私たちは「幸せ」を感じます。
というよりも、「幸せ」を感じるというのは、ただ単に、「私たち本来の状態が出てくる」だけなのです。
私たちは、「思考」でごちゃごちゃ考えなければ、本来は常に「幸せ」なのです。
いまはまったく信じられないと思いますが(笑い)
逆に、悩んだり、落ち込んだりしているときってどうですか?
周りの状況が目に入らなくなるくらい、「思考」にどっぷり浸かっていませんか?
あまり悩みを持たないあっけらかんとした人って、あまり何も考えてないですよね?
つまり、私たちは本来、「感覚」優位に生きていれば、「幸せ」で居られるのに、この「社会」の中で、「こう生きなければいけない」というような思い込みを持って、色々と考えていると、今ある「幸せ」を感じることができなくなるのです。
この私たち本来の「幸せ(至福)」の状態を定着させるためには、「瞑想」がおすすです。
なぜ、「悟りを開いた人(覚者)」が口をそろえて、「瞑想しなさい」と言っているかというと、別に、「悟りを開くために瞑想が必要」なのではありません。
簡単に言うと、「悟りを開く」というのは、私たちが普段思考している「自我」を滅することなので、「自我」の努力によって達成されるものでは無く、時が来たら、自然と「起こる」ことなので、「悟りを開くために・・・」という方法は実はないのです。
(禅僧たちが、厳しい修業をする理由は、『自我』による努力をとことんして、その先に、「ああ、やっぱり努力では無理だわ」ととことん諦める、絶望することで、その瞬間に「自我」が消えることがある・・・ということなのです)
「覚者」たちが「瞑想」を勧める理由とは、普段の「自我」によるとめどない「思考」から離れることで、普段「思考」によって邪魔されている「至福」の感覚を思い出し、そのことによって、「幸せ」の感覚を思い出し、そうすることで今まで見えなくなっていた自分本来の「役割」を思い出し、それに従って生きることができるようになっていく・・・。
まとめとして、これからの人生を『喜び』とともに生きるには、常に「思考」よりも、「感覚」を感じて生きるということです。
「思考」というのは実は「いま」に居ることができません。
ほとんどの時間「過去」や「未来」を飛び回ります。
つまり、「思考」に注目していると、意識は常に「今」を見ることが
できない、ということです。
しかし、「幸せ(身体感覚)」は「いま」感じることしかできないのです。
「思考」の中に居たら、その「いま」起こっていることを感覚を見逃すのです。
つまり、常に「幸せ」を見逃しながら、「幸せはどこにあるんだろう?」と探し続けているのが私たちなのです。
このことは、有名な「十牛図」にも描かれています。
すべては「自分の中」にしかないのです。
私たちは本来、自分の中にしかないものを、「無い!無い!」
と思いこんで、自分の外側に探し続けているのです。
あなた自身の中に見つけてください。